​Creativity continues 山口修+小穴琴恵

選出された作家(2名)が、個展・2人展・グループ展を1年にわたり展開するライズギャラリーによる企画展。

個展

本日の点と線

 

2018/9/29(sat.) - 19(fri.)

12:00 - 19:00(月・火休廊)

RISE GALLERY

 東京都目黒区碑文谷4-3-12 1F

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揺れる草木、降る雨粒、人のいない風景、机上のコップ。そういうものに私は心惹かれてきた。よくある日常の光景だと思う。しかし絵になると未だに上手に描けない。描けば描くほど絵は技術だと思い知る。何かを描くと決めたとして、いざ描くときにはすでにそれは手元にない。あるのは絵具とキャンバスとあらゆる道具だけ。さらには天気、空気、体調、時間などすべてのものが常に変化している。しかし失くしたものを追うようにして描いてはいけない。見ることと描くことのズレが、絵画でしか成立し得ない新たな風景を生み出すと思っている。モチーフは私にとって道端に落ちている石ころのようなものである。それにつまずくことで、私は絵具をいじれる機会を得る。そしてモチーフの形を借りて、自分と自分の周りの様々なものを視覚化しようとする。そういうことを今日も明日もコツコツやっていく。(2018.9 小穴琴恵)

飽きやすさという名の騎士 

-小穴琴恵「本日の点と線」をめぐって

 

「気楽に描いている気がしたから」ボナールを好きになった、と小穴琴恵は言った。たしかに、彼女の色調や筆致からこの画家への関心を察することは難しくない。だがそれで安心してはいけない。なぜならボナールは妻の裸身を執拗なまでに描き続けたが、一方、小穴は「人物を描くのは好きじゃない。苦手。」と断言しているからだ。彼女はその理由をこう語る-「感情あるものを描くと、それに雰囲気を持っていかれてしまう。でも、絵を描いているのは私なのだから“せめて描いている間は絵は私のものであってほしい”」と。

この「対象に引きずられる」問題に関してはボナールも興味深い考えを示している。それはアンジェ―ル・ラモットとの対談(1943年)でのこんな発言だ-「私は絵の制作動機であるイデー(理念)を貫こうとするが、結局はモチーフに没入し、そしてイデーを失い、何を作ればいいか分からなくなる。イデーが消滅すれば残るのは眼前のモチーフだけだ。そうなれば“絵はもはやその画家の絵ではない”」。

ところで、小穴への取材では度々「飽き」という言葉を耳にした。例えば、大作と同時に小品を描くのは、一作品に集中すると飽きるから。また、一時期はゴールを明確にせず制作していたが、それにも飽きたと-これに関して彼女は、途中でいちど方向性を見失うと、結局は既知の地点にしか辿り着けないと知ってしまった、と説明する。

そんな彼女が飽きずに続けるのは「実在の風景」を出発点とすること。抽象的なフォルムも、基本的には彼女が見た光景に存在するものだ。そこで私は「同じ風景を繰り返し描くことはあるか」と尋ねた。すると作家はこう答えた-「無いですね。一度描いたら飽きちゃうので」。

ボナールは例の対談で自身を「非力。なので、モチーフに直面すると自分を制御するのが難しい」と認めている。小穴が気楽さとして捉えたものは、一種の諦観だったのかもしれない。と同時に、彼はイデーを守り抜いた画家を数名を挙げ、各々の方策も羅列している。だが、必ずしもそれらが全て戦略的に構築されたと考えるべきではないだろう。実際には、殆ど本能的にそれが成された場合も多いのではないか。

とすれば、小穴の心に頻繁に干渉する「飽き」は、“絵は私のものであってほしい”と願う彼女が無意識的に創出したものと仮定できないか。すなわち「飽きやすさ」の正体は、彼女がモチーフの捕囚とならぬよう移動を促す騎士のような存在なのではないかと。

文/山内舞子 (やまうち まいこ) 

キュレーター。1979年生まれ。京都大学大学院文学研究科美術史学専攻修了。神奈川県立近代美術館の勤務を経て現在はフリーで活動。千葉商科大学政策情報学部客員講師。

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個展

記録・身体・紙の仕事

 

2018/12/8(sat.) - 23(fri.)

12:00 - 19:00(月・火休廊)

RISE GALLERY

 東京都目黒区碑文谷4-3-12 1F

前回の展示で”モチーフの力を借りて自分と自分の周りの様々なものを視覚化しようとする” と述べた。当然だがそれは私の身体を通して成されるものである。視覚化を試みると同時に、私の腕の振りや力加減は線や絵具の塊となってキャンバスに逐一記録されていく。何かを描くということはそういう事であり、絵画を作る上で最も重要な要素かもしれないと私は考える。今回の展示はその身体的な記録にスポットを当てたものだ。2017年頃から始めたこのシリーズは、普段ドローイングという形でしか向き合ってこなかった身体の動きに、モノタイプという行程を加えて作品化したものである。日常的なドローイングから一歩距離を置きつつ、絵画の中の身体性をシンプルに抜き出すことにより、絵画では見えづらかった、しかし確実に存在していた何かを対象化できた気がする。そしてまたこれを絵画に還元していくのだ。(2018.12 小穴琴恵)

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自由のためのエチュード

少し薄暗いギャラリーのなか、コンクリート打ち放しの硬質な壁面には赤、青、白、グレーなどさまざまな色の紙が並んでいるが、そのいずれの画面にも伸びやかで屈託のない線が走り、重なり、絡みあっている。馬の雰囲気とあいまって、一瞬、スプレーでグラフティーが描き殴られた地下駐車場に来たような気分になる。個々の画面をよく見れば、くるくると旋回したり、ジグザグの軌跡を描く線とまざって色の飛沫や一度置いた色を拭き取ったり搔き消した跡も認められる。そうした要素の蓄積から、時に人や動物の顔のような形象を読み取ることはできるが、地からはっきり浮かびあがりはしないので、それらも偶然の産物なのだろう。いくつかの作品では線の配置や重なりが矩形の縁を意識させたり、浅い奥行きを感じさせるが、多くの場合、構成や視覚的イリュージョンといったフォーマリスト的な関心さえも画家の念頭にはないようだ。

今回の個展で小穴琴恵が展示したモノタイプの作品群は、これまで彼女の油彩画だけを見てきた私には、まったく別の作家の手によるもののように思えた。油彩画における小穴の特徴は、日常的な事物(家、卓上の静物、洗濯物など)の親しみやすいイメージが、経験的な遠近法と矛盾する絵具のレイヤー操作や平面的な均衡によって異化され、欠落のある記憶を思い出すときのような、「見ることの不自由さ」を感じさせる点にあった。同時にそれは画家が感じるイメージの再現とタブローの構築のあいだでの「描くことの不自由さ」の現れでもあっただろう。一方、今回のモノタイプは純然たる実験ないしエチュードとして、再現も構築も極力を意識しないところで生まれる自由な身体性の痕跡と言えようか。結果的に展示された作品は、鑑賞者にとってはあまりにも「自由な見方」を許容するためにかえって緊張感ある解釈の愉しみに欠けたものではあるが、今後の油彩画に取り込めれば魅力的になるであろう性格はあった。ほとんどグラフティーに近い線や消し跡はサイ・トゥオンブリーの「描く/書く/掻く」という三重の身振りを想起させるし、単なるドローイングではなく転写のプロセスによって一挙に開示されるモノタイプの画面は、溝口修造のデカルコマニーのような無意識の探求にも接近している。

 

文/吉村真 (よしむらしん) 美術史研究、美術批評。1989年生まれ。2018年早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程在籍。

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山口修+小穴琴恵 2人展​

 

2019/1/12(sat.) - 2/1(sun.)

12:00 - 19:00(月・火休廊)

RISE GALLERY

 東京都目黒区碑文谷4-3-12 1F

少し前の自分

山口 修+ 小穴琴恵 『2人展』をめぐって

 

これって、どうリアクションしたらいいのかな-山口修が「作品のもと」なるドローイングを私に見せ、そこから生み出した「作品」を指し示した瞬間、そう思った。というのは、両者は似ても似つかぬものだったからだ。

 山口修を美術の道に導いたのはひとりの中学教師。彼は山口のクロッキーを称賛し、美術部に勧誘し、美術系高校への進学を勧めた。しかし教え子がそれらに応じないことを知ると、今度は美術大学の受験を提案。この教師の願いは高校2年生となった山口が美術予備校を初めて訪れることで現実味を帯び始めるが、結果的に彼を22歳までそこに通い続けさせることになった。

 作家曰くこの「ドローイングと絵画」は「楽譜と演奏」のような関係にあり、前者があることで、後者で冒険が出来、そして予想以上のものが生み出せるのだと言う。と同時に「良い絵にはリズムがある」と述べ、ドローイングをそのリズムに乗るための「土台」でもあると言った。ここで私が気づいたのは、その関係を音楽よりもむしろスポーツに例えたほうが分かりやすいかもしれないということ。すなわち、ドローイングの制作は、競技中のフォームとは一見関係なさそうに見えてもそのパフォーマンスの最大化(メンタル面も含め)には欠かせないウォーム・アップの動作に近いのではないか。

 とはいえ、科学的根拠が存在するこの例えに比べれば、山口の制作過程はほぼ論理的飛躍に等しい。これに関して興味深いのは、他者には追跡困難なこの冒険について、それが成せるのは長めの受験勉強のおかげだと彼が認識していることだ。美大受験の弊害を訴える作家は少なくないが、そこに費やした時間と労力の積層もまた「土台」とできる山口の才能は、彼が必ずや長命な作家となることを予感させた。

 

かつて「人物を描くのは好きじゃない。苦手」と言っていた小穴琴恵の作品に、人物が登場していた。それも8点中5点。

「人間ではないくらい形を崩せるようになってきたから」というのがその理由。たしかに一見したところでは、画中に人の姿を認識するのは難しい。が、作家が「鑑賞者を案内するような若干の親切心もある」と言うように、糸口となる木炭の線を捉えることさえできれば、まさに「芋づる式」に人体の輪郭線が浮かび上がってくるようになっている。一度それを経験すれば他の作品から人間を見つけ出すのは難無きことで、その誘導ぶりは巧みというほかにない。

内容だけでなく、描き方にも変化が生じていた。とりわけ顕著に感じたのは「下地」のテクスチャ。聞けば、下地まで作った状態のキャンバスをある程度ストックしておくようになったという。その理由はいくつかある。例えば元来「飽きやすい」彼女が、継続的に制作を進めるためには細かく作業内容を切り替えていく必要があり、下地づくりはそこに挿入するのにちょうどよいこと。また、表面の起伏を荒々しくすることも重要で、それにより、小穴が得意とするドローイング的な筆致を施しただけでも、作品としてしっかりと成立してくれるのだという。だが、最も重視すべきは「下地制作」と「木炭・油彩による描画」との時差がもたらす心理的効果なのかもしれない。小穴はこう述べる-「下地に抵抗感があることで、それを作った時のことを思い出せる。描きにくい場合もあるけど、予想外の要素があったほうが制作を続けやすい。逆に、下地に抵抗が全くないと、自分が今やっていることしか見えなくなる。いろんな方向から絵に向き合いたい」。

 

山口修と小穴琴恵には大きな共通点がある。それは「絵具を塗る時の自分だけを頼りにしていては、自分の予想を超えた作品を生み出すことはできない」という思いだ。そんな彼らの最も心強い味方は、ドローイングや下地を作ってくれる「少し前の自分」。自己に対する客観視がなせるそれぞれの戦略に、ひきつづき注目したい。

文/山内舞子 (やまうち まいこ) 

キュレーター。1979年生まれ。京都大学大学院文学研究科美術史学専攻修了。神奈川県立近代美術館の勤務を経て現在はフリーで活動。千葉商科大学政策情報学部客員講師。

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​© RISE GALLERY

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​© RISE GALLERY

山口修+小穴琴恵+手賀彩夏+佐々木麦帆+おさだ グループ展​

 

2019/2/9(sat.) - 3/1(fri.)

12:00 - 19:00(月・火休廊)

RISE GALLERY

 東京都目黒区碑文谷4-3-12 1F

透明な対話

(展評より一部抜粋)

 

生き生きとした線と自在な色彩。小穴の絵画あまさに「絵画」としてそこに存在している。作品のモチーフはどれも日常的な事物であるが、しかしそれは契機に過ぎない。塗り重ねられた色面と身体的な線の蠢きは、モチーフの再現的描写のためではなく、ただそれがあるように存在している。表現の不自由さこそを推進力として生み出されるイメージは、「見える」ようで「見えない」何かである。それは思い出すたびに変質していく記憶にも似ている。知覚し、理解し、表現すること。その侭ならぬさから生まれる風景は純粋な知覚となって、世界と自分とを見つめている。小穴は存在の困難さとその齟齬とを、全て抱いて、描くのだ。

 

文/當眞未季 (とうまみき) アートマネジメント研究。1989年生まれ。2014年武蔵野美術大学大学院造形研究科修士課程美術専攻芸術文化政策コース修了。

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​© RISE GALLERY

個展

あたりまえの絵画

 

2019/5/4(sat.) - 24(fri.)

12:00 - 19:00(月・火休廊)

RISE GALLERY

 東京都目黒区碑文谷4-3-12 1F

朝起きてバイトに行き、帰ってきて家事をし、夜アトリエに向かう。毎日少しずつ絵が変わっていく。日々の積み重ねでしか絵は完成しない。私の作品にメッセージや物語は存在しない。何かを描きたいと思い、それに都合の良いきっかけ(モチーフ)をその都度どこかから借りてきている。私は野生の草木と同じように、存在していることが当たり前に感じられるような絵を描きたいと考えている。もちろん人が人の手で作り出すものである以上、作品はこの世界にとって異物に違いない。しかし絵具を使ってキャンバスに新たな秩序を生み出し、それに則ったより自然な形をゼロから作りだすことで、絵画は、いつかは野生の草木のような然るべき存在に近づけるのではないかと思っている。そう夢見て今日もコツコツと描いていくのである。

(2019.5 小穴琴恵)

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​© RISE GALLERY

色彩とデッサン、あるいはポリフォニックな意志

 

真珠母色の靄のなかで白、ピンク、黄、青といった色彩が響きあう画面は一見白昼夢のように心地よく、自然と焦点があう中心をもたない。だが、そこには無数の作業の痕跡が刻みこまれており、全体としては構築的でもある。さまざまな幅のストロークをさまざまな方向から走らせては、拭き取ったり、削って、また塗り重ねながら、ほとんど即物的に画面の枠組みとサイズに応じて色彩と形態の配置を更新していった結果、画家はある瞬間ふと無時間的で夢幻的な場面にたどり着いていたかのようだ。一方で彩色するストロークとは別に、黒い描線が制作の出発点となった情景を簡潔に示している。

かつてマティスはボナールへの手紙で、モチーフに即したデッサンと画面に固有の秩序を構築する色面とのあいだに避けがたい不一致が生じるという悩みを打ち明けていた。おそらく小穴琴恵も、昨年秋の個展の時点はその「ずれ」に不自由さを感じていたに違いない。しかし、今やその「ずれ」は小穴にとって画面の秩序の画一化をふせぐ契機であるとともに、モチーフを日常的な生活のなかでの意味から解き放つための余地のとして積極的に受け入れるべきものなのだろう。真珠母色の靄は、すべてを筆触の織物のなかに解消してマティスのジレンマを避けたボナールを想起させるが、小穴の新作をじっくり見ていると別々の意志にもとづく色彩とデッサンのポリフォニーが聴こえてくる。

 

文/吉村真 (よしむらしん) 美術史研究、美術批評。1989年生まれ。2018年早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程在籍。

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